ランボルギーニのウラカンです。ガヤルドの後継となるモデルですが、デザイン面ではアヴェンタドールの流れを汲んでいます。アヴェンタドールにせよこのウラカンにせよ、その製作の過程で一切クレイモデルを作らなかったことも一つのトピックになっています。クレイモデルを作らないという従来の自動車業界の常識に反する手法で、何か失った部分はあるのでしょうか。
一般に、自動車製作の過程でクレイモデルが登場するのはデザインスケッチの次の段階となります。クレイモデラーが粘土を使ってデザインスケッチを立体化させるのですが、最初は4分の1など小さなスケールで作り、そのボディ表面に実車に見えるようフィルムを貼り、デザインを縦横斜めそれぞれから360度視点でチェックします。一台だけではなく複数のクレイモデルが作られます。そこで選ばれたクレイモデルの寸法を機械で計測し、1分の1モデルのクレイモデルを機械で削り出し、またクレイモデラーが仕上げます。この過程でこそ、言葉や数字で表現仕切れない、人間の心のひだにまで訴えかける造形が生まれてくるのでしょう。
翻ってランボルギーニですが、クレイモデルを使わないということは、クレイモデルの存在意義である「心のひだ」であるとか「琴線に触れる」ような、微に入り細を穿つ部分を放棄していることになるのでしょうか。あるいは、クレイモデルに頼らずともそれらの表現を可能ならしめる仕組みがあるのでしょうか。私にはこの点は全くわかりません。ただ、カウンターパートであるフェラーリ、そして同価格帯の競合がクレイモデルを使ってこその車を世に出しているため、ランボルギーニのクレイモデル不要という手法は突拍子もない選択には思えません。また、クレイモデルを使わないからこそ表現できている何かがあるのかもしれません。アヴェンタドールやウラカンを見ていると何となくそう感じます。
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